冨田勲先生!ありがとう!月の光や新日本紀行から初音ミクまでシンセ界のゴッドファーザーの訃報

この記事は2分で読めます

どもども、lenachamaでっす。

今日、訃報で明らかとなった冨田勲先生の死。

私は言葉が出ないです・・・。

あんなにお元気で、うちの息子のこともとても気にかけてくれていた先生。

冗談まじりで、とてもお話の面白かった冨田先生。

冨田先生からいただいたシンセサイザーで今、私は音楽を奏でています。

どうぞ、どうぞ、安らかにお眠りください。

 

冨田勲先生とは

tomita_1979

1950年代、慶應義塾大学文学部在学中に作曲家として活動を始め、NHKや民放における数々のテレビ番組、

また映画や虫プロダクション関連のアニメーションなど多くの作品で音楽を担当した。

特に大河ドラマやNHK番組、虫プロアニメの主題曲などは人々の記憶に残るもの。

そう、手塚治虫先生の作品も数多く手掛けられてるの。

手塚先生とはよく喧嘩した

っていうエピソードもあって、芸術家同士の葛藤があった様子。

 

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冨田勲先生の代表作

皆んなが、知ってる!って曲は意外とこれかしら??

 

今日の料理


この曲は明日までに、って無茶ぶりされた仕事らしくて!!

でも、今じゃ誰もが知ってるこのメロディー!!

月の光

私はNYにいた時、アメリカ人のおじさんにこのアルバムを聴かされて、それでシンセの虜になったの。

クラシックのアレンジって非常に好まない私。

だけど、これは違っていた、音楽って絵なんだ!光なんだ!って思った曲。

 

冨田勲先生とシンセサイザー

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1969年に、大阪万博の東芝IHIのパビリオンの音楽を録音するため、大阪に滞在。

訪れた輸入レコード店で、モーグ・シンセサイザーMOOG III-C) を全面的に用いて作成された

ワルター・カーロス(現在はウェンディ・カルロス)の『スイッチト・オン・バッハ』と出会い、

これこそ求めているものだと直感した。

1971年秋頃、モジュラー式のモーグ・シンセサイザー(モーグIII-P画像)を日本で初めて個人輸入した。

非常に高額な楽器であり、金銭面で苦労したという。

wikipediaにはこうあるんだけど、冨田先生自体はウェンディー・カルロスは好んでなかった様子。

これは本人の口から聞いたから。

「へぇ〜、あの音楽のどこがいいんだい?」って・・・・w。

そして、この金銭面の話なんだけど、

これは主人の齋藤久師がきちんと公開配信の時に聞いたよ。

「先生、こんな高価な物を買うなんて、よっぽどNHKからもらってたんじゃないですか?」ってw。

そしたら、冨田先生はきちんと答えたよ。

NHKがそんなくれる訳ないでしょう!!銀行に言って、融資という名目で借りたんですよ。

もちろん、ちゃんと多目に言って、差額分は貯金しました。

wwww

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この時のトーク、めちゃくちゃ面白かった!!

DOMMUNEの宇川直宏さんと齋藤久師

この二人。孫が聞きたい放題聞いてるような、めちゃ貴重なトークだったね。

 

感想と追悼

何にせよ、冨田先生はシンセ云々の前に素晴らしい作曲家だったのよね。

そして、オーケストレーションまでもを操る冨田先生が、敢えて取り入れたシンセサイザー。

これは、大きな意味があったと思う。

今の世の中はオーケストレーションができないからシンセサイザー、という風潮もあるけど、

先生は真逆をいっている感じ。

この姿勢は私には宮崎駿さんと重なる部分がある。

今年、実は4月にキース・エマーソンが来日するということで、私も関わっていた。

私の携帯に電話までくれたキース、でもその直後に死んでしまった。しかも自殺で。

非常にショックだったけど・・・

それからあまり間も無く冨田先生の訃報。

どんどんと時代は変わり、一時代を築いた偉大な人たちがこの世を去っていく。

残された私たちは何をする?

ものすごく考えてしまう。

冨田先生は亡くなる1時間前まで次作の打ち合わせをしていたとか。

ものすごいバイタリティーだ。

先生のご冥福を心よりお祈りします。

 

 

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    • DUMMY
    • 2016年 5月9日 13:29

    そうですね。
    世の中の、氏の情報の中にはちょくちょくねじ曲げられたり美化されてまとめられているものが散在している。
    けど、実際はそうじゃない。
    それよりもっと奥に真実はあるし、相当の苦労をされて来た筈。
    これを面白おかしく話される辺りに氏の大らかさが伺えた。
    途轍もなく大きな存在の喪失です。
    遺された我々は、技術の研鑽や表現の方向を探るのは勿論の事、氏の最も凄いところである飽くなきチャレンジ精神と開拓精神、それを突き進めるバイタリティ、それに、未来と子供達を見据え、讃えるあの柔和な笑顔を心に次へと進む事なんだと思いました。
    氏の魂はいまきっと銀河鉄道に乗って、更なるスペースファンタジーの世界へと夢を膨らませているに違いありません。
    心からの哀悼の意を表します。

    MOMO

      • lenachama
      • 2016年 5月9日 13:44

      MOMOさん、コメントありがとうございます!

      冨田先生はやはり著名だからか、アメリカではデマ記事まで出ていて、本当は死んでないとか??

      私は先生の人柄が大好きでした!お茶目なおじいさんでした。
      小さい子も大好きで、孫娘のために大型バイクの免許を取ったくらいですからね!
      うちの子も本当によくしてくれて、そういう所に先生の人柄が出てたように思います。

      大変なことを大変だったと言ったり、難しことを難しく説明するのは結構簡単ですよね。
      先生は、常に苦労を面白おかしく言ったり、音の説明もなるべく他の物に例えて、みんなが理解しやすく話してくれていましたね。

      私は、自分の活動として、そういうコミュニケーションを音楽を通して出来るようになれたら良いな、と思っています。

      lenachama

        • DUMMY
        • 2016年 5月19日 10:33

        デマ記事のこと、はじめて知りました。
        でも、ほんと先生特有のご冗談であればなぁと何度も思いました。
        皆そう言う思いなんでしょうかね。

        かなりお茶目でしたよね。もはや少年のようでした。

        子供に対する思いというのはずっとお持ちのようでしたね。
        お若い頃から、子供合唱団の為にご尽力されていたり、子供用の作曲や、我々世代ですと、アニメや教育番組のテーマ、関西人には馴染みのカネテツの曲など、どれも親しみやすく、あの優しい笑顔が出てくるような、また頑張れ!と励まされているような、そんな気持ちになるような作品が多かったように思います。

        晩年(なんて言葉は使いたくないですが)はクラシックや深夜イベントの現場が多かったですが、ある時、本番は児童は入れないからと、リハーサルにうちの子を喚ぶ事をゆるして頂いた時に、ポツリと「本当は子供達にこそ観て欲しいんだけどね。」とニコニコしながら子供達を見守っておられたのがとても印象的でした。

        冨田先生の中にはご自身のルーツ、夢とともに、常に子供の未来と世界平和が、それも全く押し付けがましくなく、とても自然な形でテーマとして大きく存在していたように思います。
        素晴らしいことですよね。

        そういうところも含めて、我々トミタサウンドを浴びまくって育った世代は受け継いで行くべきだと思いました。

        親になってからそういう想いがより解るようになったのかも知れませんが、lenaさん仰るように、音楽を通して、自然体でそういう事を表現して行けると素晴らしいですね。

        返信有り難うございました。

        MOMO

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